みずみずしい小説が読みたくなって、21歳が書いた芥川賞受賞作品を読んでみた。すると、「押しは命にかかわる」と書いてあるではないか。「押し」に生きる人の人数が増えすぎると、少子化問題が心配であるが、命にかかわるんじゃ仕方ない。
「押し」とはいちばん好きな人やもの、という意味だと思うが、この小説の主人公あかりの「押し」はある男性アイドルらしい。この小説が信頼できると思うのは、芥川賞だということ以上に、作者本人に8年間押している「押し」がいるという事実だ。名前は公表されていないが、映画や舞台で活躍する俳優さんだそうだ。
つまり、この小説の「押し」に関する描写は、イマジネーションや取材を超えているはずだ。きっと作者自身の心とカラダを切り刻んだような本物の何かが書いてあるに違いない。
※以下、大きなネタバレはしませんが、少しだけ内容に触れていきます。ご了承いただける方のみ、または読了後にご覧いただけると幸いです。
主人公のあかりは不器用な高校生。みんなが普通にできることが難しい。忘れ物がひどいとか、約束を守れないとか、漢字テストにどうしても合格できないとか。病院を受診したら2つほど診断名がついたと言うから、単なる不器用を超えている。生きているだけで大変で、肉体が重いのだと言う。
しかしだ。「押しを押すときだけあたしは重さから逃れられる」のだ。押しは生活の背骨だと言う。この小説の「押し」は、大ファンとか追っかけという意味を超えている。
「押し」ていないと生きていられない。これは一体どういうことか?
読んでいるうちに、幻覚や幻聴から逃れるために絵を描いているという草間彌生氏(くさまやよい)を思い出した。文化勲章まで受賞している素晴らしい芸術家だが、おそらく本人はただじっと座っているだけでも大変なのだ。描いている時だけは逃れられるから、描くしかない。描かないと生きていられないのではないか。
これは、あかりが「押し」ていないと生きていられない、と言うのに少し近いと思う。病気の種類や程度は違うにしても、あることに気を向けている時だけが苦しみから逃れられる、という点は似ている。
もっと一般化すると、特に診断名がつくような病気はなくても、とても対峙できないような「生きずらさ」や「苦しみ」がある場合、これに気を向けていれば逃れられるという何かがあれば、凌げるということだ。
それが、悪い薬や深すぎるお酒やギャンブルや暴力など、いわゆる「嗜癖」と言われるものだと困るが、「描く」とか「押す」とかで生きていけるなら、こんな有難いことはない。
著者の宇佐美りんさん曰く、『「生きてさえいればいい」なんて言いますけど、ベッドに横たわって全然動けない、だから何もしない、ということって誰も許してくれないんですよね。そんな生きづらさをなんとか凌いで前に進む方法の一つとして、押しを押すことに人生を掛けることもあるんだよ、という現実を書きたいと思いました」(文芸春秋3月特別号より抜粋)
言われてみれば、絵画などの芸術は「昇華」として知られているが、心を守るための方法としての「押しを押す」という方法はあまり言われていなかった気がする。その辺が面白いと思った。
外部の何かに依存して生きる人生の何がいけないか?
芥川賞の選考委員のひとりである吉田修一氏が、選評で「そもそも押しに依存して生きる人生の何がいけないのかが分からない」と言っている。程度問題ではあるが私も「あり」だと思う。
じゃあ何かまずいことでもあるのかと言うと、あかりの場合は、押しの男性アイドルが引退してしまうのである。あかりはガチ勢もガチ勢、本物だから傷つき方も半端じゃない。
押しが引退して、アイドルでなくなって、人になった時。あかりを明確に傷つけたものが何なのか。その文章が切なかった。
自分でいることから目をそらしてくれていたものが無くなった時、あかりは自分を壊そうと思った。けど壊さなかった。あかりの場合は、生きることをギブアップするほどの発達障害(とは書かれていないが)ではなかったように思う。ただ小説の終盤を読むに、結構ギリギリだったのかもしれない。こう言われることが最も辛いのかもしれないけれど。
ただ、あんまりギリギリだと危険だ。100%外部の何かに依存しているようでも、実は10%くらいは自分の内部に生きる道を残しておけたら、と思う。
ラストシーンの綿棒は何に例えているか?
「押し、燃ゆ」が芥川賞だと聞いて、納得したのは終盤だ。特にラストシーンに綿棒が出てくる描写があるのだが、綿棒を何に例えているかを考えた時、このラストはとても独特で、他の人にはちょっと思いつかないように思った。選考委員の選評を読んでみると、先生によって少し解釈が違っていた。どちらの解釈にしても、このラストの描写は強烈だ。忘れられないような気がする。
最後に。
たいていの健康的な「押し」は、いろんな心の状態にむしろ有益だと感じる。「押しのどこが好き?」と聞かれて、主人公あかりのように「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の「逆」だと言えるほどなら、「押し」のことを考えるだけで、爆発的な力が出るはずだ。一回でいいから、不健康なほどの「押し」を経験してみたい気もするな。