「真夜中の五分前」感想と考察vol.2 アイデンティティとは何か?
「真夜中の五分前」という作品は、双子姉妹とそれぞれの恋人を描くことで、「自分は何者か?自分は誰か?」というアイデンティティについて相当突き詰めている。似すぎている二人。恋人でさえ、いや本人たちでさえ、どっちがどっちか分からなくなる。こうなると、本当にアイデンティティって一体なんなんだろう?と考えてしまう。
本作を撮った行定勲監督は、「GO」というアイデンティティについて描いた映画で強烈なインパクトを残している。これは「在日」と呼ばれる主人公の「僕」が日本人の女の子に恋をする話で、差別や国境を一蹴する「僕」を窪塚洋介が演じた。原作は金城一紀の直木賞受賞作、映画賞を総なめにしたこともあり、記憶に残っている人も多いはず。
行定監督は「GO」を撮った時から、いや、おそらく撮る前から、ずーっとアイデンティティについて考えている。「真夜中の五分前」を観て、まずそう思った。そして本作の原作を書いた本多孝好もまた金城一紀からの影響が深い。兎にも角にも「真夜中の5分前」はアイデンティティについてずっと考えてきた人たちが生んだ作品なのだ。
双子の姉妹は、ルオランとルーメイ(1人2役・リウ・シーシー)だ。ルオランの恋人はリョウ(三浦春馬)、ルーメイの恋人はティエルン(ジョセフ・チャン)。彼らは、物語の前半はまだ自分の恋人がどっちか分かっていた。しかし、後半になって事故で片方が亡くなってからは、生き残ったのがルオランなのかルーメイなのか?正直分かっていない。こうなると、どっちを愛していたのか? 実はどっちでも良かったのか? 相手の何を愛していたのか? さらに本人までもが分からないと言い出す。本当に分からないのか?分からないふりをしているのか?
これは、人間としては危機的状況である。なぜならば、青年期にアイデンティティの獲得がうまくいかないと、非常に生きずらいとエリクソンも言っているように、自分が誰か分からないまま生きるのは難易度が高過ぎるからだ。自分が何者か?とは、大それた話ではなく、「自分はこんな感じの人」「この社会の中でこんな感じでやって行けそうかな」くらいの「社会の中での自分らしさ」がなんとなく掴めればOKらしい。これができれば、アイデンティティが拡散してグレちゃう、承認欲求が爆走する、おかしな行動に出る、消えてしまいたくなる(ルオランがそうだった)等々を防ぐことができる。
周囲の人の反応や言葉から少しずつ「自分はこんな感じ」というのを獲得できればいいが、ルーメイとルオランの場合、親も見分けがつかなかったし、色の違う洋服を着せていたが、いたずらで服を交換しているうちに、どうやら本当に分からなくなったらしい。
泳ぐ姿がきれいだった。
最初の方はまだ見分けがついた。姉妹の違いが最も分かりやすいのはルオランとリョウ、ルーメイとティエルンの4人で別荘に行った時だ。ルオランは清楚で芯が強い感じ、ルーメイは華やかで奔放な感じ。この場面では、むしろ同じ顔なのに全然違う点が強調された。
別荘での4人の会話が印象的だ。いくつか重要な核になるような話も出ている。ルーメイが「ルオランのどこが気に入ったの?」と聞くと、リョウは「泳ぐ姿がきれいだった」と答える。そんなことで好きになるもんかな?顔も見ていないのに?とピンとこなくて逆に記憶に残ったのだが、これは、後々考えると「生きる姿がきれいだった」という意味にも取れる。
顔、体形、性格、能力、どんな仕事をして、どんなことが好きなのか?等々、アイデンティティはその人のあらゆる面に見て取れるが、泳ぐ姿が、生きる姿がアイデンティティだと思うと励まされる。生き方がアイデンティティなのだ。そう考えれば、いつからでも、どこからでも、アイデンティティを培うことができる。
実際、この前後の場面では、ルーメイとルオランの生き方の違いが示されている。ルーメイは、「私たち、入れ替わることなんて、簡単よ。毎日どんなことがあったか、何でも話しているし、何でも共有しているの」と言った。そっくりならそっくりで二人分の人生を楽んでしまえばいい。恋人だって共有したいと言わんばかりの妖艶さでリョウを誘うルーメイ。こわいなぁ、本当にリョウが奪われてしまいそう…などと思っていると、恋人のティエルンはバツの悪い笑いで同調している。ルオランは「悪いジョークよ」と言って、嫌悪感を隠しきれない。リョウに至ってはどんなジョークか理解さえし難い様子…。享楽的な人生もまたよし、とするカップルと、冗談でもおぞましいとするカップルが対比的に描かれた。
気を悪くしたルオランが部屋を走り出た。その後ろをリョウが追いかける。この時、残されたルーメイの顔がアップで映るが、心の内側で何かが蠢いているような、何とも言えない表情をしていた。やけに印象に残る映像だなと思ったら、この顔とそっくりな表情がラストシーンの最後に再びアップになる。映画はこの顔で終わるのである。(これについては、最後にまた詳しく)
人をブランコから落とす方と、落とされる方。
別荘の外に出たルオランは、不思議なことを言い出す。幼い頃のブランコの話だ。ルオランがブランコに乗っていると、ルーメイが来て強く背中を押した。ブランコはどんどん高くなって、怖くなってブランコから飛び降りたら、頭を地面にぶつけた。ここまでは別におかしな話ではない。ところが、ルーメイも同じ話をルオランにして、彼女によるとブランコから落ちたのは自分だと言うのだ。どちらかが記憶違いをしている? ルオランは「その時の傷がまだここにあるのに」と言って頭をさするが、髪に隠れて傷は見えていない。この時、リョウが傷を確認さえしていれば、そしてティエルンに頼んでルーメイの方に傷があるかないか見てもらっていれば、後々の姉妹の見分けは容易についたはずだ。しかし、仕方がない。この時はまだ、とんでもない恋愛ミステリーが始まるとは誰も知らないのだから。
ルーメイの恋人ティエルンは、もともとルオランが先に知り合った。フリーライターのルオランは映画プロデューサーのティエルンと取材で出会い、先に好きになっていた。そして多分まだ好きなのだ。演技に興味を持ったのもルオランが先だった。つまり、ルオランはルーメイに全部譲ってしまった。ルーメイは、ルオランの夢だった俳優への道を手に入れ、ティエルンへとの婚約を成就させた。しかもルオランの紹介で。だからこそ、リョウもまた奪われそうな気配に、耐えきれなくなって部屋を飛び出したのだ。
「私の人生は全部ルーメイに奪われる。そのたびに自分が自分じゃなくなっていく」「ルーメイに何度も消えて欲しいと思った。そんな自分が嫌」と、ルオランはリョウに心の内側を見せる。「自分が消えてしまえばいい…」そう言って本当に消えてしまいそうになるルオランを、リョウは「消えないで」と言って抱きしめる。
この時、リョウはブランコから落ちたのはルオランだと信じたはずだ。欲しいものはどんどん獲得していくルーメイと、大切なものを失った傷をそっと心にしまってしまうルオラン。リョウが愛するのは、ルオランの「泳ぐ姿」だ。興味深いのはルーメイが金づちだということ。ルオランからすべてを奪って生きているルーメイは、本当には泳いでいない(生きていない)ということか?
わたしも、その五分で、ルーメイと違う世界に行けるかな。
この後、別荘を抜け出した二人は時計店のリョウの二階の部屋で泊まり、この日から一緒に過ごすことになる。ルオランが「リョウの部屋の時計はなぜ五分遅れているの?」と尋ねると、五分遅らせていたのはリョウではなく、亡くなった恋人だったと分かる。恋人は世界に追いつける程度(五分)に時計を遅らせると得した気分になると言い、その五分を楽しんでいた。ルオランが「忘れられないの?」と気にすると、リョウは「どうかな?」といいつつ、時計を正確に戻すつもりはないようだった。ルオランとせっかく出会ったのだから新しい時を刻んで欲しいものだが、五分遅れたままでいい、と言う。亡くなった恋人と一緒に過ごした五分遅れの時間にずっといるつもりらしい。五分遅れの世界にルオランを招くかのようにリョウは五分遅れの腕時計を作ってプレゼントした。「わたしも、その五分で、ルーメイとは違う世界に行けるかな」この世界には、自分とそっくりな妹がいて、自分の描いた人生はいつも妹が実現してしまうから、自分はここにいる意味がない。ルオランは、リョウと同じように一人取り残された世界に生きていたのだ。
こうして、二つのカップルは上手く行っていたように見えたが、ルーメイとルオランが旅行先で事故に合い、片方が亡くなってしまった。生き残った方が昏睡状態から目覚めた時、彼女が手を取ったのはティエルンの方だった。つまり、生き残ったのはルーメイ。
ティエルンとルーメイの新生活が始まり、リョウは意気消沈したまま、またしても一人残されて時計店で静かに暮らしていた。しかし、一年ほど経って、ティエルンが彼女はルオランではないのか?と言い出した。見分けを付けてくれと頼まれたリョウが二人の家を訪ねてみると、そこに居たのは、ルーメイにしては清楚な感じの女性だった。ティエルンは相当疑っているらしく「どっちなんだ?」とリョウに詰め寄る。彼女は女優の仕事もしているが、どうも演技が前とは違う。映画プロデューサーであるティエルンがそこに気が付かないはずがない。
しかし、リョウにしてみれば、もし彼女がルオランであれば、一年も平気でティエルンと暮らし、女優として生きているわけがない。ルオランがルーメイになりすまして、奪われた人生を取り戻したのだろうか? リョウの愛していたルオランは、そんなことはしない。なりすましていたとしたら、それはリョウの好きなルオランではない。事故の後、昏睡から目覚めた時、自分は選ばれなかった。それがすべてだ。
結局、ティエルンはどうしてもルーメイだと思えず、二人は離婚してしまう。家を出た彼女はプールに行き、リョウの前で溺れる。「よかった、泳げなくて」と言って、自分がルーメイであることを証明したのだが…。泳げるのはルオラン、泳げないのがルーメイ。二人を見分ける有力な手掛かりではあるが、これが演技ではないという証明はできない。
プールから彼女を助け出したリョウは、そのまま時計店の二階の部屋に連れてくる。ティエルンに離婚され、自分でもルーメイかルオラン分からないと言って、心細そうな彼女。リョウは「ブランコから落ちたのはどっち?」と尋ねる。「わたし」と答えた彼女の頭の傷をリョウは今度こそ確認する。彼女が髪をかき分けて見せると、傷はあった。ルオランなのか…おそらくリョウは、彼女はルオランだと思ったのではないだろうか?100%の確信ではない。しかし、傷があったことが決定打となって、彼女に心が動いたことは間違いない。
さらなる確信を求めて、リョウはティエルンに会いに行った。ティエルンは傷を見たことはあるのか?それが知りたかった。ティエルンは当然のようにブランコの話は知っていたし、傷を見たこともあった。事故の前に見たのであれば、それはルーメイがブランコから落ちたのであり、今リョウの部屋にいる彼女はルーメイということになる。しかしティエルンは傷を見せてくれたのが、ルーメイだったのかルオランだったのか、今となっては分からないと言う。彼女が言うように、やはり幼き頃から何度も入れ替わっていたのか? 二人の境界線は混じり合っていて、もはやルーメイでもルオランでもないのだろうか?
「一人にしないで」という彼女を受け入れたリョウが、もし彼女を愛したいと思うのであれば、それは、新しい恋ではないだろうか? ルーメイかルオランか、名前はどちらか知らないけれど、彼女はブランコから落とした方ではなく、落ちた方である。そして彼女から漂う孤独と傷を愛おしいと思ったのではないだろうか?彼女の中に、リョウ自身の孤独と傷を見たのだ。
名前ってなに? バラと呼んでいる花を 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま
これは、記事の冒頭で触れた「GO」という小説の扉に書いてあるシェイクスピアの言葉。アイデンティティとは何か?を端的に言うと「美しい香り」のようなものなのだろうか。誰かを好きになるということは、その人の独特な何かを好きになることだと思うのだが、その独特な何かが、アイデンティティというものに近い気がする。それをシェイクスピアが言うと「美しい香り」となるのだろう。美しい顔でも、いい香りでもなく、美しい香り。それを漂わせるのは、その人の「泳いでいる姿」なんじゃないかと、そう思えてほっとした…何かアイデンティティなる特別なものを探し歩かなくてもいい。生きてさえいればいい。ルーメイとルオランはそっくりな一卵性双生児であっても、本当はちゃんと唯一無二だった。服を取り替えたりして余計な混乱を招かなければ…。
最後に。
映画の終盤まで、生き残ったのはルオランだとほぼ確信していたが、最後の最後に分からなくなってしまった。五分遅れの腕時計を五分戻して時計店に置きに来た彼女。慌てて腕時計を握りしめて彼女を追いかけるリョウ。てっきりルオランが一緒に今を生きようと言いに来たのかと思いきや、振り向いた彼女の顔のアップで映画が終わる。え?この表情はルオランじゃない。ルーメイでは? 4人で別荘に行った時に、部屋を飛び出したルオランをリョウが追いかけた時のルーメイの表情。嫉妬心が蠢いているような、リョウに私を選んでよと言っているような、何とも言えない顔…その顔と同じに見える…同じ映像使ってる?
生き残ったのはルーメイか、ルオランか。行定監督はとことん分からないように作ったらしい。記事のvol.1でも書いたが、どちらがと言うよりも五分遅れの時計を五分戻したことが重要なのだと思う。人は誰かと近づいたり離れたり、触れたり触れなかったりすることで、何かしら動いたり変わったりする。五分遅れの世界の片隅から動こうとしなかったリョウの時計が動いた。他者との関係の中でアイデンティティは形作られるということがよく分かる。
少々ネタバレ(小説)になるが、リョウ(原作では僕)はみんなと同じ五分戻った世界で現実を生きるが、真夜中の五分前、つまり23:55から24:00までの五分間だけは、亡くなった恋人やルオラン(原作ではかすみ)のこと、失ったもののことを思う。興味深いのは、獲得したものではなく、失ったものがその人を形作るという考え方を示していることだ。映画の中にも、なんとなくそのニュアンスが漂っている。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

