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「コタローはひとり暮らし」最終回のお父さん(滝藤賢一)の観せ方に、DV問題の解決のヒント。

夜中の11時半~12時という時間帯に、5歳児が主役のドラマって?そんなの可愛いに決まっている…と思いつつ見ていたが、その意味深い内容に、あっと驚いたのは3話だった。

訳あって5歳児のコタローは「アパートの清水」でひとり暮らし。3話では、同じアパートの住人のキャバクラで働く「みづき殿」が彼氏のDVを訴えるか?という話だった。みづき本人も悩む中、コタローは「ダメである」と反対する。自分もかつてはお父さんを訴える立場になったことのあるコタローは「自分の好きな者を訴えることになる」と言うのだ。

5歳児のコタローが口にしたこの言葉は、まさにDV問題の解決のハードルを上げている原因だ。20年ほど前からDV防止法という法律もあり、児童相談所も地域との連携を図って、何とかしよう懸命になっているが、家族が家族(または同居人)を訴えるなどと言う事は易くないからだ。

コタロー自身も、父親を訴える形になったことに後悔の気持ちがあるからこそ「ダメである」と言ったのだろう。

しかし、「暴力」というものは、タバコやお酒への依存と同じ「嗜癖」であるそうだ。平たく言うと、「暴力」は治りにくい「くせ」である。

誰にでもストレスやら不満やらイライラや怒りなど、負の感情はあるだろうが、それが自分で抱えられる大きさであるうちは問題は起こらない。それが抱え切れない大きさになると、内側に影響する人ならうつ状態などの問題、外側に出る人は「暴力」ということになる。

つまり、「暴力」を治すには、少なくともヘビースモーカーやアルコール依存症の人がそれを止めるのと同じくらいには大変だし、時間もかかる。

こう考えると、一刻も早く「治療」を始めた方が良い。「訴える」という言葉と行為には抵抗があるが、「治療」に繋げることが解決の道だ。

さて、最終回でコタローの父親が滝藤賢一だと知った。いかにもDVの演技が達者そうなイメージがあるが、画面に現れたのは、おしゃれで素敵なお父さんだ。柔和で幸せそうな表情で、大きなお腹のお母さんにピアノを聞かせる場面だった。

暴力をふるう場面など少しも見せられていないのに、滝藤賢一が優しそうな表情をするほどに、暴力の怖さと悲しさがこみあげてきた。

原作にこの場面があるのかもしれないが、演出にセンスを感じる。「パンとスープとネコ日和」や「東京男子図鑑」の松本佳菜監督だ。

最終回で見せた素敵お父さんは、コタローのことを決して忘れるような人には見えなかった。どんなに優しい人でも、暴力などを振るったことのない人でも、それは紙一重なのではないかと思うと更に恐ろしい。

何か啓蒙しようとして作られたドラマではないと思うが、口に出しにくく、説得などというものが効果のない問題において、こんなふうにドラマで描かれたら、じわっと胸に入ってきやすい。

最後シーンでは、アパートの看板をおしゃれな水色に塗り替えて、コタローと相棒のように過ごした「狩野殿(横山裕)」が「ここが俺たちの家だ」と言った。これもまた、核家族のカプセルの中では、もうどうにも子育てが上手くいかなくなって久しいが、「心の持ちよう」の大きなヒントになると思う。ずいぶん前から子どもは地域のみんなで育てようと行政の会議では言われているのだろうが、この調子だとなかなか伝わってこない。

30分間のドラマで、単発で見ても楽しめた。コタローは「とのさまん」というアニメを真似て殿様言葉を使っているようだが、自分は「おじゃるまる」を思い出した。

寝る前にこんなドラマを30分だけ見るのは、いいなぁと思うから、終わってしまって残念だ。こんなテイストのドラマが長く続けばいいんだけどな。

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