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「コントが始まる」夢は叶わなくても良い。「芋粥(芥川龍之介)」と「火花(又吉直樹)」にも通じるテーマが興味深い。

夢は叶わなくてもいい!という考え方を初めて知ったったのは、小学生の頃。町の小さな図書館で読んだ芥川龍之介の「芋粥」という短編小説だった。

あらすじはシンプルだ。主人公には「芋粥を腹いっぱい食べてみたい」という夢があって、寝ても覚めても「芋粥」のことばっかり考えていた。しかし、いざ念願叶って腹いっぱい食べたところ、ちっとも美味しくなかった…というお話であった。自分は、これに甚く感心した。「夢は叶えなくてもいいってことかい?!」と心底驚いた。子ども心に、「夢は叶えるべき」って、きっと思っていたんだろう。

大人になって、夢とは不思議な生き物だな、と思った。なんとなく願ったものが叶い、強く願ったものほど叶わない。

「芋粥」の解釈は諸説あるが、「理想なり欲望」は「達せられない内に価値」があり「達せられた時」には「却って幻滅を感じるばかり」という説(国文学者の吉田精一による)が定説であるようだ。

「コントが始まる」の登場人物の中に「芋粥」の主人公の気持ちが分かる人間が、一人いる。

高校生でぷよぷよゲームの王者になった瞬太(神木隆之介)だ。彼は、高校卒業後は進学も就職もせず、プロになった。5年経って「もう歯が立たない。甘くなかった」と噓をついてマクベスに入れてもらったが、本当はまだまだ王者でいられる力があった。「全国大会では2位に大差をつけて優勝して自己ベストも更新したけど、むなしかった。売れないけどマクベスで頑張っている春斗(菅田将暉)と潤平(仲野太賀)の二人の方が輝いて見えた」とはっきりナレーションで言っている。

目標を早期達成してしまった彼にとって、自分の才能を世に誇ることは、もうあまり魅力がなかった。瞬太の「芋粥」はもうあんまり美味しくなかったのではないだろうか。

瞬太は、たった一人の家族だったお母さんとの確執があった。あれダメこれダメって言う割に自分は欲望に忠実なお母さんに嫌気がさして高2の時に死のうと思ったこともある。

たった一人の家族と心通わせられなかった瞬太は、ぷよぷよの王者としての自分を誇るより、自分が死のうとした時に声をかけてくれた春斗(菅田将暉)と一緒にお笑いコントをやる道を選んだ。王者でいることよりも、他者と心通わせることを求めたのだ。

瞬太にとっては、春斗と潤平(仲野太賀)の三人で川の字になって寝ることの方が大切だった。両方と話せるから真ん中に寝たいって言った瞬太がなんだかいじらしい。

思い切って言うと、夢は何でもでもいいし、動機も何でもいい。夢に向かう途中こそが素晴らしいのだ。売れないままマクベスをやっていた10年間がどんな意味があったのか?と、このドラマは繰り返し問い、登場人物のそれぞれの視点から描いている。

「売れなくても、辞めても、敗者じゃない」

このことを描いた作品として記憶に新しいのは、又吉直樹の「火花」だ。これは、小説で泣き、ドラマで泣き、映画で泣き、3回以上泣かされた作品であった。

売れなかったお笑い芸人の、長い時間(こちらも「コントが始まる」と同じ10年間)の、その意味を語るセリフが小説では2ページにもに及び、これを読んだ時の胸の痛みは失恋以上であった。

この痛みこそが、生きた証であり、生きる意味であり、命の価値だ!とさえ思った。

映画版では菅田将暉と桐谷健太がスパークスというコンビを組んでおり、「売れなかったけど敗者じゃない」意味を語る2ページにわたるセリフをラストシーンに持って来ている。この長いセリフは、桐谷健太が担当していたが、とても素晴らしかった。逆に言うと、このセリフで観客の胸を打たなければ、映画がだいなしになる、という責任重大な役どころであった。

「コントは始まる」の最終回では、今度は菅田将暉が「敗者じゃない」意味を語るセリフを担当していた。9話では瞬太役の神木くんがバーベキュー場で「敗者じゃない」意味を「どんな人間関係を築けたか」に焦点を当てて語ったが、最終回では、春斗役の菅田将暉が「1000人に見てもらうのもいいけど、一人に100回見てもらうのもいい」と語った。

「コントは始まる」では「必要のないことを長い時間かけてやり続ける怖さ」「結果が全く出ないかもしれないことに挑戦することの怖さ」の表現は「火花」より大分マイルドであった。

瞬太は、先述したように、マクベスに入る時点で他者と心が触れることを優先していたし、潤平には酒屋の跡継ぎという保険があったからだ。どちらかと言うと売れなくて世間に見下される切なさの方が強く出ていたように思う。「平凡じゃないふりするの、もう疲れたわ」という太賀のセリフにこびりついた辛さがあった。

「コントが始まる」は群像劇なので、「人生詰んだ」感じの20代5人の葛藤と視点が描かれたが、正直言って、自分は誰にも共感しにくかった。

中でも太賀演ずる潤平が、今までさんざん渋っていた酒屋の跡継ぎをお姉さんの旦那さんに取られそうになったとたんに、急に自分が継ぐんだと食らいついた時には、いかがなものか?と思ってしまった。

しかし、芥川龍之介の「芋粥」にかかわりがあるとされている「外套(ゴーゴリ著)」でも、自分自身を守る大切な外套(コート)を奪われることで初めて人間性を獲得するといった内容が描かれている。

仕方がない。それが人間の性質なのだろう。つい批判的な目で潤平を見てしまったが、きっと私こそ自分を守っている大切なものを奪われたら大きく態度を変えるに違いない。

「コントは始まる」は楽しいドラマでもあったが、人間の残念な性質をそれぞれの登場人物に背負わせていた。「火花」の胸に突き刺すような「深さ」に対して、じんわりと広く染みる感情が伝わってきた。

ただ最終回の「冷蔵庫じゃんけん」は、心に深く入ってきた。

永遠に続いてほしい「あいこ」が終わって、菅田将暉演じる春斗が勝ってしまったとき、今、この瞬間に青春のピリオドが打たれた、という迫力があった。

「このままあいこが続いてくれれば、この時間が続いてくれるような気がした」という菅田将暉のナレーションの声が切なかった。くだらない冗談やツッコミやこだわりが物凄く尊いもののように思えた。

青春のピリオドを打つ瞬間を描くのは、小説でもドラマでも映画でも絵でも音楽でもすごーく難しいと思うのだが、3人が共同生活したお世辞にもお洒落とは言えない部屋で、その瞬間を切り取ったのは、本当にすごい。

この瞬間の感動にたどり着いた時、さすがに自分なりに思う所があった。

「何者かにならないといけない」とか「やりたいことを見つけないといけない」とか大げさに考えなくても、夢や目標はなんでもいいし、なくてもいい。

何もなければないで、自分のために生きられなかったら、人のために生きればいい。

何かを成し遂げなくてもいい。振り返った時、コントみたいな人生だったな、と思えたら、結構いい人生なんじゃないか。

…と、こんなふうに、動けなくなった人が動けるようになるヒントが満載のドラマでもあった。

脚本の金子茂樹さんは、「俺の話は長い」でも失業してニートになった満(生田斗真)が動けるようになるまでの話を書いている。おそらく「なぜ人は動けなくなるか?」「どうすれば動けるようになるのか?」かなり研究されているのではないだろうか?

このドラマには、その情報が惜しみなく提供されている。里穂子先輩こと有村架純が「ロゴマークが可愛いとか名前がカッコイイとかで会社を選んでもいい」と言った時は、さすがにキャリアコンサルタントとか転職エージェントの人に怒られないの?とは思ったが、つまり何でもいいから歩けばいいってことだろう。友達なんてのは、歩く道々に咲いている花みたいなもんだと自分はそう思っている。

もちろん、そんなに一筋縄ではいかないだろうが、このドラマには、かなり有益な情報が含まれているように思う。

ところで、一体誰が人生のハードルをこんなにあげちゃったんだろうか?近年は引きこもり等の人数も増えて、大分緩まった気もするが、私なんかは何を勘違いしたのか、偏差値70を偏差値50みたいに思っていた時期もあった。

無事に楽天的に過ごせたのは、子どもの頃から芥川龍之介の「芋粥」の影響を受けて、夢は別に叶えなくても、誰にも怒られない。夢は何個持っても自由だし、無料。と信じていたからだろう。叶ったものと叶わないものがあったケドネ。

 

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