気のせいか、最近、ドラマサイトのレビューが面白くない。
特に「silent」。
美辞麗句のオンパレードでもって、「ドラマが素晴らしい理由」を力説するのだが、
うーん……?何か…どうしても褒めないといけない理由でもあるの?と思ってしまう感じが否めない。
そんな折、坂元裕二ファンなら読んでいないはずかない、「青春ゾンビ」のブログに「silent」の記事が投稿された。
ドラマ「カルテット」を何倍にも面白く観られたのは、青春ゾンビの記事のおかげだった。が、しかし!青春ゾンビは忙しいらしく、その後は、たま~に、よっぽど気が向いた時にしか投稿していないようだ。
そんな「青春ゾンビ」が、かなり久しぶりに投稿した。
記事のタイトルは、「生方美久「silent」1~5話」。
ドラマのタイトルより前に脚本家の名前を出しており、
生方美久さんがヤングシナリオ大賞を受賞した「踊り場にて」という脚本からもいくつかのセリフを紹介していた。さすが、青春ゾンビは気が利くな。
全体としては、他のライターさんと同じように、ほぼ手放しで褒める内容ではあるが、きっちり調べて書いている。
青春ゾンビによると、
生方美久さんという脚本家さんは、坂元裕二、スピッツ、「ハチミツとクローバー」といった彼女が敬愛して止まないであろう作家や作品の影響が大きいに違いない、と言う。
「silent」の湊斗くんが「やさしさの成分」でできている、という表現を借りれば、
生方美久の「silent」というドラマは、坂元裕二、スピッツ、「ハチミツとクローバー」の成分で出来ている、
と言ってもいいかもしれない。
実際には、もっともっと、いろんな作品に似ている。
しかし、それは、オマージュとか引用ということではなく、
あくまでも「成分」を感じる、ということだ。
そこが良いのかもしれない。
今回、「silent」こんなにも沸いたのは、
その「成分」が、わりとポピュラーだったからからではないだろうか。
まあ、そうは言っても、ドラマの中で、スピッツの曲が「ハチクロのやつ」と言われても、私にはすぐには分からなかった。
が、「ハチミツとクローバー」と言われれば分かるし、それが好みの作品ではないとしても、原作者(羽海野チカ)にはとても興味がある。「3月のライオン」を描いた漫画家さんだからね。
…というふうに、あまり文化的でない私でさえ、「silent」の成分には、多少なりとも馴染みがあるのだと思う。
ただ、正直に言うと、馴染みのある成分であるがゆえに、いろいろと引っ掛かってしまう部分もある。
この「引っ掛かる部分」がまた、「みんなの感想」(ヤフーのテレビ感想欄)を爆発的に盛りあげているんだと思うけど。
今ちょっと「みんなの感想」を見に行ったところ、「silent」の感想欄は1622件もの感想が書き込まれていた。
しかも、みっちりと書かれた長文もけっこう多い。
これだけの件数があれば、自分と同じ疑問や引っ掛かりを持った人がいることがわかるし、それを読むと、ちょっとホッとする。
ちなみに私が引っ掛かったのは、6話。紬の弟(板垣李光人)が、湊斗くん(鈴鹿央士)の家に行って、「姉ちゃんの視界に入っていてくれて、ありがとう」と言うシーンだ。
わかる。言いたいことはわかるけど。
好きな人というのは、「自分の視界に入っているだけで嬉しいものなんだよ」と恋愛当事者(紬=川口春菜)が思うのはいいんだけど、第三者に言われるのはどうなんだろうか?
私の知る限りでは、それは、小説家の吉本ばななが、一冊をかけて、いや何冊もかけて表現していたテーマではなかったかな?と思う。
もちろん、直接的には吉本ばななの小説に全く関係はないのだが、
なんだか、板垣李光人がプラカードに小説のテーマを書いて、
いきなり鈴鹿央士の家に持って行ったように、私には思えてしまって、とても不思議だった。
こんな唐突な表現もできる、ということが、ドラマの特徴であり、制作者の手腕なのかもしれないけど。
そんなこんなで、他にも「ええっ!?」と思う場面がセリフが多く、私の場合は、このドラマ、つっかえなから観ていたので、みんなの感想を読みに行くことが多かった。
中には、プロのライターさんのようなテンポのある人もいて、とても面白い。
連ドラを観るには、けっこう時間も取られるので、年末が近づくっていうのに、自分が時間を無駄にしてしまったのでは?
という焦りも、実は大いにあった。
じゃあ観なきゃいいじゃん、と、お思いでしょうが、結局のところ、話題性には抗えなかったってことだ。
もう6話まで観てしまってからには、最後まで観て時間を取られてもいいと、開き直った。
だって、
仲のいい友達とお茶したり、ご飯に行ったりしても、お互いに自分でも気が付かない内面に触れるようなコミュニケーションに至ることは、なかなか少ないと思うから。
10回に一回あったら、いい方だと思う。
その点、ドラマを題材にしていれば、仮に悪口になってしまったとしても、俳優さんが悪いわけでも、脚本家や演出家が悪いわけでもない。
ドラマの構成上の話であるから、何の問題もない。
だからこそ、本音が書き込めるし、誰かの本音を読ませてもらうこともできる。
そして、中には見逃してはならない意見もあった。
日々、耳の聞こえない方と接している人の感想だ。
大変な不快感を示していた。
テレビは、観る人の数が、映画より圧倒的に多い。
ティーバーがあるから、ますます観られる。
だからこそ、耳が聞こえない人や、関わりのある人々にも届いた。
何が不快か?本音を聞く機会はとても貴重だと思う。
私にも、耳の聞こえない女性の知り合いがいるが、
唇を読むことができるし、リュックしか使えないということはない。
個人差はあるが、生まれつき聞こえない場合も読唇術は可能だし、悲しかったり困ったりするのは、そこではないようだ。
紬は想に「どうしてしゃべらないの?」と聞いていたが、
ドラマとは言え、どうして、そんなことが言えるんだろう?知らないということは、なんと恐ろしいことか。残酷すぎる。
中途失聴者であっても、自分が普通に発音できているかどうか、自分では確認できないんですから。
おそらく、ラストシーンに向けて、言葉より大切なものがある…という内容に、なってくるんだろうけど。
いや、そこをラストで表現するために、ドラマの冒頭からずーっと「言葉と声」が強調されていたんだと思う。
アンチテーゼってやつかもしれないが、映画なら2時間ほどで決着がつくところ、連ドラは10回ほどあるからね。
「その人のどこが好き?」「好きな言葉をくれますね」等の表現が強調された期間が長過ぎて、その間に極端に不快な思いをしてしまった人もいるようだ。
いずれにせよ、多くの人に見てもらえる連ドラだからこそ、耳の聞こえない人へ意識を向け、聴者にもやれることはやろうと、いろいろと考える機会に成り得ることは、凄いことだ。
言葉より、非言語コミュニケーションの方が、気持ちをあらわす情報量は、圧倒的に多い。
言ってしまえば、言葉はいらない。
「silent」のラストでは、おそらくその旨がとても感動的に表現されるだろう。
そこは信じている。